人生道中膝栗毛

料理を作るのが好きな主夫みたいな体育学部の大学生です。

晴天の霹靂

 今回は、哲学的なことを書く。感情的になっているために少し、いや荒れている。ご配慮願いたい。

 

”人間の存在意義とはなんだろうか”

 

中学生の頃からのずっと頭の片隅にある疑問。

 

今、祖父母の家に帰ってきていて、まだ生まれて四ヶ月のいとこの面倒を見ている。

 

首は、すわっているけど寝返りをまだうてない。好奇心旺盛ないとこ。

 

彼と遊んでいるとこっちまで自然と笑顔になれる。

 

だけれども、彼は数年後、僕を見た時、小さい頃遊んだ記憶なんてないのだろうと思うと無常になる。

 

僕だって記憶は4歳の幼稚園の入園式の少し前までしか記憶がない。あとは曖昧だ。

 

けれども可愛いから遊ぶ。

 

そもそも祖父母の家に来ているのは、いとこの面倒ではない。

 

祖父が危篤状態にあるからだ。

 

祖父は、高校生の頃、脳梗塞で倒れ、なんとか一命は取り留めたものの、だんだん弱々しくなっていった。

 

僕が大学生となって少ししたある日、彼は食道癌で手術をした。

 

手術は無事成功したものの、痰が喉にからまることが多くなり、肺炎を度々起こし入院生活が続いていた。

 

僕はたまたま、七月に所属するクラブの試合の関係で祖父に会う機会があった。その時にあった祖父は痩せこけてベットにいた。

 

涙を堪えるのに必死だった。太かった腕も骨と皮だけになり、顔も痩せてしまっていた。食道に癌があったため、食事ができなかったため点滴で栄養をとっていた。

 

その時、僕の頭のどこかで”死”を覚悟した。このままでは、冬は越せないと。

 

それでもなんとかなると思い、病院を後にした。

 

それから四ヶ月たった時、青天の霹靂のごとく母からの一報があった。

 

「祖父が心肺停止になった。」

 

痰が喉に絡まり、窒息したそうだ。なんとか心臓は打ち返したが、脳に酸素がいかなくなっていたため昏睡状態だという。

 

もう長くないということは電話越しの母から察した。すぐさま飛行機をとり、会いにいった。

 

病室で四ヶ月ぶりに会った祖父はベットの上にいた。

 

喉に痰がからまないようにチューブがつけられていた。

 

しかし、祖父は心肺停止による脳へのダメージがあったため会話はできないし、随意的に体を動かすことすらできない。

 

それでも耳は聞こえるというので色々話しかけた。これまでのこととか。

 

話をしているうちに自然と、堰を切ったかのように涙が出てきた。

 

何を話しても、何も返事がない。反応はあるが脊髄反射だと医師は言う。

 

辛すぎた。この時ほど神という存在を憎んだことはなかった。

 

脳梗塞、癌、突然の心肺停止。挙げ句の果てに昏睡。

 

どこまで無常なのだ。なんのための人間なのか。

 

そんな風に神を恨んだ。

 

いつ最期を迎えてもおかしくない状態の祖父。

 

医師がもっても二週間といったがそれ以上生き、奇跡が起きると信じたい。

 

祖父とまた正月を迎えたい。また将棋をしたい。またいつもみたいに、いつもの店のたこ焼きを頬張りたい。

 

今になってあの当たり前が当たり前じゃないと気づかされる。

 

 

 

 

 

人間の存在意義ってなんだろうか。なぜ人は生き、老いていくのか。

 

永遠の課題である。